venerdì 29 ottobre 2010

WYDマドリード大会の保護者


聖イシドロ(農夫)(1070‐1130)

聖イシドロ(農夫)1622年3月、5人の偉大な聖人(「5聖人」)が列聖されました。そのうち4人はカトリックの改革を行った著名な人物(ロヨラの聖イグナチオ、聖フランシスコ・ザビエル、アビラの聖テレジア、聖フィリポ・ネリ)でしたが、聖イシドロだけは修道会創設者でもなく、何か偉業を成し遂げた人でもありませんでした(農耕に従事してはいましたが)。教えを残したのでも、弟子がいたわけでもありません。イシドロはただ、農夫でした。マドリードに生まれ、生涯同じ地主に仕えた小作人でした。農民として過酷な労働の苦しみに耐えながらイシドロが示した単純な、しかし深い信仰は、世界中の農業従事者に共通しているでしょう。イシドロはミサに毎日参加し、耕作中にもいつも祈っていました。そんなイシドロの場合、その信仰が奇跡という目に見えるしるしとして表れたと言われています。
たとえば、祈りに没頭するイシドロの代わりに、天使たちが畑仕事をしているのが見えたという話も伝えられています。イシドロはまた、自分よりも貧しい人々や動物たちに示したそのやさしさでも有名で、常に貧しい人々に食事をゆずり、その残りだけでも彼は生きていけたとか、空腹で頼りなく鳴く鳥たちに運んでいる荷袋を開けてトウモロコシを与えていたのに、加工場に着いたときにはその荷袋は満杯になっていたとか、そうした話がたくさん残されています。
けれども聖イシドロの特徴はこうした数々の奇跡的な話ではなく、その人生はごくありふれたものだったことです。イシドロは、神から愛された「小さな人々」のひとりなのです。修道士ではなくとも聖イシドロは「祈り、働き」、貧しくとも惜しみなく愛の業を行いました。
列聖されている聖人には聖イシドロのような人物は珍しいかもしれませんが、天の国はこうした無名の人々が多く生きる場なのでしょう。
聖イシドロはマドリードの保護者として知られていますが、ほかにもスペインの都市レオン、サラゴサ、セビーリャの保護者です。また、農夫、日雇労働者、田舎の共同体の保護者です。

○模範のヒント○
できれば日々ミサに参加し、労働において祈り、時を無駄にせず、小さなことに忠実に、あるものはいつも、必要としている人々と分かち合うこと。

福者マリア・デ・ラ・カベザ(Maria Torribia)(生誕不明‐1175頃)

福者マリア・デ・ラ・カベザ聖イシドロの妻。1697年に福者として列福されましたが、これまで、夫婦で列福されたのは聖イシドロと福者マリア・デ・ラ・カベザだけです。「サンタ・マリア・デ・ラ・カベザ」(英語では“Saint Mary of the Head”)という変わった敬称は、トリビアの頭と言われている有名な遺物に由来し、直訳すれば「頭のマリア」という名で崇敬を受けています。
マリアはイシドロと同じく、敬虔な信者でした。彼らの間に生まれた息子がある時深い井戸に落ちてしまい、助けるすべがなくただひたすら祈ると、とつぜん井戸の水が上昇して息子が無傷で助かったという伝説が残されています。ただしその息子は幼くして死んでしまいます。聖イシドロよりも長く生きたマリアですが、イシドロの死後の隠居生活には、いくつかの奇跡や幻視があったと言われています。純白のマントで川面を覆った聖母マリアがハラマ川(マドリード近くの川)を渡る夢を見たという伝説も残されています。

○模範のヒント○
小さなことにも目を向け、大きな愛の心でもって努め、周りの人々に単純で無欲の愛を伝えること。

5月15日は、聖イシドロとその妻の福者マリア・デ・ラ・カベザの記念日です。マドリードは祝日で、町をあげて「サン・イシドロ」のお祭りを祝います。大人から子供までがチュラパ(女性用)/チュラポ(男性用)と呼ばれる衣装を着て、夜遅くまで踊りに興じ、聖イシドロのお菓子をもらいます。この衣装は19世紀のマドリードの服装スタイルで、男性はズボン、チョッキとベレー帽、女性は長いスカートと大きなスカーフをまとい、頭は白いスカーフとカーネーションで飾ります。また、聖イシドロが農夫だったため、田舎に出かけたり、田舎料理を食べたりする習慣もあります。教会から聖人の像を乗せた御輿で行う行列もあります。

十字架の聖ヨハネ(1542‐1591)

偉大な神秘家かつすぐれた神秘神学者としてだけでなく、教会博士として称えられています。しかし彼の偉業は死後になってからの評価であり、生前は所属の修道会からさえ迫害を受けていました。
彼の父は裕福で高貴な家の出身でしたが貧しい町の少女と結婚したことで勘当されます。母はヨハネ(本名はファン・デ・イエペス)を産んですぐに亡くなり、また父も病に倒れ、ファンは貧しい中で育ちます。しかし教育を受けることができたファン少年は、12歳でカルメル会に入ります。「十字架のヨハネ」はファンの修道士名です。
十字架の聖ヨハネ内的祈祷と霊的生活に励む修道会だったカルメル会はスペインで勢力がありましたが、その時代、厳しい規律が緩んでしまっていました。ヨハネの人生の分岐点となったのは、司祭叙階の年(1567年)に女子カルメル会で改革を進めていたアビラの聖テレジアとの出会いでした(ヨハネ25歳、テレジア52歳)。ヨハネに自分と近しい霊性を感じたテレジアは、自身とともにカルメル会の改革を担うのはヨハネだと理解し、ヨハネもまた彼女の努力に魅了されます。こうしてヨハネはカルメル会を簡素で深い霊性に戻す刷新に取り組むため、上長の許しを得て跣足カルメル会修道院を設立し、初代院長となったのです。
16世紀のスペインでは霊的刷新は危険視されていました。つまり、不従順や異端発見に騒がしい時代だったのです。ヨハネは反改革派のカルメル会に拉致されてトレドの修道院に幽閉され、9ヶ月の間パンと水だけの食事、そして定期的な折檻を受けました。奇跡的にそこを逃げ出したヨハネは、やっと跣足カルメル修道会に戻ることができました。しかし跣足カルメル会に戻った後もヨハネの苦しみは続きました。才能をうらやむ兄弟らによって修道会での指導的立場から外され、兄弟との親しい交わりを持つことが許されませんでした。ヨハネはその孤独の中で神秘的な著作物の執筆を行います。それが、後に彼の名声を高めることになった書物です。長い間病床に伏した後、1591年、彼自身が設立した修道院の中で、孤独に、実際に目をかけられることなく亡くなります。
ヨハネの霊性には自らが体験した苦しみが深く影響しており、その神学は自身の詩に注釈を加える形で示されています。代表的作品の『暗夜』は、トレドで幽閉されていた際に書かれた詩が基になっています。人間の魂が神との合一に向かう神秘思想の神学と、優れた詩としての文学がひとつになった作品として、今なおカトリックのみならず多くの人々の心を響かせています。

○模範のヒント○
祈りを通しての神との一致に向かうこと。迫害を受けても神から離れず決して屈さず、すべての苦しみを、聖性を養う機ととらえ、託された使命を恐れずに担うこと。母マリアの導きに信頼すること。

アビラの聖ヨハネ(1500頃‐1569)

アビラの聖ヨハネヨハネはコンベルソ(キリスト教に改宗したユダヤ人)の裕福な家庭に生まれました。14歳でサラマンカ大学で法律を学び、修道生活への召命を受けます。17歳になるとフランシスコ会の司祭の助言でアルカラで神学と哲学を学びますが、まだ学生のときに裕福な両親が亡くなります。彼は残された多くの遺産をすべて整理し、貧しい人々に分け与えました。1525年に司祭に叙階されたとき、最初のミサは両親が埋葬されている教会で司式したそうです。
西インドまたはメキシコで宣教師になる希望もあったヨハネでしたが、40年もの間、アンダルシア地方を旅する偉大な説教師となりました。また、ムーア人が侵略した地域を再びキリスト教化することに尽力した人物でもあります。裕福さの危険や富裕者は天国に入れないといった説教を行い、支配者層に強く反発を受けて逮捕されたこともあります。しかしすぐに釈放され、その後ますますその名が広まりました。ヨハネはアビラの聖テレジア、聖フランシスクス・ボルジア、聖ヨハネ・ア・デオ、十字架の聖ヨハネ、アルカンターラの聖ヨハネ、グラナダの聖ルイなどの霊的指導者でもありました。偉大な説教者としての彼の著作は、今日も影響を与え続けています。
あなた自身を土のかたまりに変えて、主にこう言いなさい。「私は土くれです、陶工である主よ、私をあなたのお望み通りにお作りください」と。 ‐アビラの聖ヨハネの言葉‐

○模範のヒント○
聖体としておられるイエスへの愛を深めること、必要とされる場では改革者となること。自身の霊的養成を真摯に行うこと。たとえ迫害を受けても真理を説き、真理を生きること。

アビラの聖テレジア(1515-1582)

イエスの聖テレジアとしても有名。スペイン中部の町、アビラの出身。父親は裕福な商人で、母との結婚により貴族となりました。父方の祖父はコンベルソ(キリスト教に改宗したユダヤ人)でした。テレジア14歳のときに母親が亡くなり、教育のためにテレジアは修道院に送られます。そこで彼女は「地獄に対する恐怖よりもさらに深い神の愛を感じて」修道女になることを決意します。
父親の反対を押し切り20歳でアビラのカルメル会に入会したテレジアですが、入会してすぐ、一時はこん睡状態になり死の一歩手前まで悪化する重い病気にかかります。そして3年の闘病期を経てようやく修道生活に戻れるまで回復したものの、その間、テレジアの霊的生活への情熱は薄れてしまっていたのです。
当時、カルメル会の厳しい規律はすっかり緩まり、アビラの修道院は祈りの家というよりも、まるで富裕層の女子学生の寄宿舎のようで、修道女は訪問者とのおしゃべりに明け暮れていました。そんな中、39歳になったテレジアは回心の体験をします。ある日、たまたま十字架上での受難のキリスト像に目を向けたテレジアは、言葉にならない衝撃を受けました。そしてすぐに自らの怠惰な霊的生活に嫌気を覚え、真摯に祈りの生活に身を置くことを決意するとその瞬間、テレジアは神の愛の圧倒的な気配を体験し、その中で自身が変容していくことを感じたのです。この体験を経て、テレジアはカルメル会の規律と霊性の原点に立ち返るための新しい改革カルメル修道会を設立します。1552年のことでした。
新しいカルメル会は、跣足カルメル修道会として知られています。修道女は麻のサンダルを履いていて実際ほとんど裸足のようでありましたが、その名はテレジアの刷新のしるしである徹底した貧しさを表しています。そうしてテレジアはスペインに17の修道院を開きました。彼女の改革は男子カルメル会にも影響を与え、アビラの聖ヨハネは彼女に感銘を受けて男子の跣足カルメル修道会を開きました。跣足カルメル修道会は非常に貧しく、共同体のゆるんだ規律は元に戻され、社会から隔離して日々祈りを生活の中心にしていました。
時は、スペインがムーア人に勝利した頃で、ユダヤ教徒を追いやったスペインは調子づいて歓喜にわき、攻撃的になったカトリック教徒が大勢を占めていました。そうした中で跣足カルメル修道会も、規律のゆるんだカルメル会の激しい反対を受け続けていましたが、いつしか社会にも大きな影響を与え、16世紀におけるカトリックの改革の原動力にもなったのです。
数々の苦難にあっても、テレジアは心の軽やかな人物でした。少しの金貨のみで多くの修道院を設立したことについて、「私とこの金貨は確かにちっぽけなものです。でも、神には、私とこの金貨で十分なのです」と答えています。
テレジアの霊的教えは、「日々」キリスト者となるための次の助言に顕著です。「あなたには一つの魂しかありません。それは、死ぬためには一つの死しかないのと同じです。同じようにあなたには一つの生涯しかありません。生涯は短く、またあなた自身が一人で歩まなければならないものです。けれどもそこには永遠に結ばれる栄光があります。ですから、多くのことに思い煩ってはなりません」。

○模範のヒント○
祈ることを生活の中心におき、すべてを主にささげ、自分に正直でありながら謙遜で、そしていつも愛の業に心を向けること。

リマの聖ローザ(1586‐1617)

リマの聖ローザ多くの聖人がそうであったように、ローザもまた自身の召命を求め苦しんだ聖人です。スペイン侵略から50年後の1586年、ローザはペルーのリマで生まれます。イザベルという洗礼名を授かりますが、その美貌からローザ(バラのような子)と呼ばれていました。求婚者は多く、両親は将来の安定を願ってローザの結婚を望んでいました。けれどもローザは自らを神に奉献することを固く決意しており、両親はローザの結婚をあきらめざるを得ませんでした。両親との葛藤の頃、父親の採鉱業が失敗します。家計を助けるためにローザは、刺繍をしたり花の栽培をして働きました(そのため彼女は、刺繍をする人や庭師、花やの保護者となっています)。しかしその間も神のためだけに生きる人生をあきらめていませんでした。ついに自らの模範としていたシエナの聖カタリナのように、ドミニコ会の第三会員となります。庭に建てた小さな小屋の中に隠遁し、何年もひたすら祈る生活を送ります。そして次第に、貧しい人々、インディオの人々、奴隷とされた人々のために働くようになります。社会問題を個人の罪と同様に捉え、熱心に向き合ったのです。
たび重なる病と精神的苦しみが多かった聖ローザの生涯は31年で幕を閉じます。すでに亡くなる頃には、彼女の聖性は町中に伝わっていました。そして1671年、アメリカ大陸で最初の聖人となりました。

○模範のヒント○
この世の名誉を求めるのではなく、毎日、自らの召命にできる限り忠実に生きる努力をすること。苦しみも神の恵みとして笑顔で受け入れること。

ロヨラの聖イグナチオ(1491‐1556)

ロヨラの聖イグナチオイエズス会の創始者。バスク貴族の家に、13人兄弟の末っ子として生まれます。若い頃に廷臣や兵士としてスペイン王室に仕える中で、儀礼的作法、騎士道精神、忠誠心が深まったようです。1521年にイグナチオはフランス軍とのパンプローナの戦いの中、砲弾で足を負傷します。自宅の城での療養中、退屈を紛らわすための読書で(好んで読んだ騎士道恋愛物語では足らず)、諸聖人の物語も含め、とにかく手に入る本を次々に読みあさっていました。そして退屈しのぎにすぎなかった読書を通し、イグナチオは次第に神に仕える生き方の偉大さにひかれるようになります。
歩けるまでに回復したイグナチオは、モンセラート巡礼に赴きます。聖堂でひと晩じゅう祈った後に物乞いの服と自分の高価な服を交換し、騎士の忠誠を表わす行為として自分の剣と短剣を祭壇前に捧げ、イグナチオはキリストに仕える兵士となったのです。
巡礼後、司祭を目指してラテン語を学び、また必要な教育を受けるためにパリ大学に留学します。そこで出会い、イグナチオに影響を受けた6人とともに、教会が必要とする奉仕を行う新しい修道会、イエズス会を設立します。当時、カトリック教会は危機と同時に好機の中にありました。それはルターによるプロテスタントの改革と、またスペインとポルトガルによる植民地化でキリスト教の宣教が盛んだったということです。イグナチオの時代にすでに3,000人の会員にまで増えたイエズス会が宣教、そして教育と学問の分野で大きな貢献をしたことは広く一般に知られています。
イグナチオは、「活動における観想(contemplation in action)」という方法論を用いました。イエズス会創設とは別に、彼のもうひとつの偉業は『霊操』を著したことです。それは、自らの回心の体験に基づきながら、「識別」(discernment)を促すいわば実践教書。霊操者が自らの召命、つまりその生き方を通して神に栄光を帰すための各々の道について自ら見出すことができるような手引書で、以後400年以上経た今なお広く使用されています。

○模範のヒント○
この世の名誉を求めるのではなく、毎日、自らの召命にできる限り忠実に生きる努力をし、苦しみも神の恵みとして笑顔で受け入れること。

聖ラファエル・アルナイス(ラファエル・バロン)(1911-1938)

聖ラファエル・アルナイス信仰深いカトリックの裕福な家庭の7人兄弟の長男として、北中央スペインのブルゴス市で生まれます。少年時代はイエズス会の学校に通い、青年期になる頃には知的、芸術的、霊的に優れたたまものを受けた特別な素質があると誰もが認めていました。ユーモアも謙虚さも持ち合わせ、バランス感覚に優れ、オープンで積極的で、そして何事にも喜んで接するさわやかな好青年でした。ラファエルがキリストに深く結ばれるきっかけは1930年、高校の卒業記念に叔父夫妻であるマクエーダ公爵夫妻のもとで休暇を過ごしたときでした。ラファエルは彼らの勧めで、トラピスト修道院と出会います。修道院の沈黙の美とサルベ・レジナの歌声に魅了されて3年後の1933年、兵役を終えて建築学を学んだのち、志願者としてトラピスト修道会に入り、その後修練者となります。
その時から4年後に死を迎えるまで、ラファエルの人生は急速に流れていきます。最初の出来事は修道院に入ってわずか4カ月後の病でした。1935年から1937年までの間、ラファエルは自宅で数カ月療養しては修道院に戻る生活を3度も繰り返えさなければなりませんでした。時はスペイン内戦中でしたから、実際に任務に就くことはできないとして戦いの場に出ることはありませんでしたが徴兵の呼び出しも受けました。ようやく修道院に戻ることができた時、共同体の片隅に終のすみかを与えられ、そこで生活をするようにと、つまり修道誓願をあきらめて一信者として修道院に残ることが許されます。そして1938年4月26日、ラファエルは修道院の診療所でわずか27歳の生涯を終えます。
ラファエルは、単純に、けれども情熱的に「神だけ」を見つめ続けた青年でした。平穏に歩むことはできませんでしたが、彼にとっての神の道は修道生活でした。だから、何度そこから出なければならなくなっても、いつも修道院に戻ったのです。非常に短い修道生活でしたが、ラファエルは純粋かつ濃密にシトー会の霊性を体現したといえます。
教皇ヨハネ・パウロ2世により、若者の模範として死後わずか54年の1992年に列福され、列聖は2009年11月に行われたばかりです。

○模範のヒント○
主の呼びかけにすぐに応えること、神のみ手に自分を委ねること、苦しみも喜んで受け入れ、神との交わりに自らの幸せを見出すこと。

聖フランシスコ・ザビエル(1506-1552)


「神戸市立博物館蔵」

バスク人。1530年代にパリ大学に留学中にロヨラのイグナチオと出会い、彼とともに最初の7名のイエズス会士の一人となります。1541年、教皇のアジア大使としてポルトガル領のゴア(インド)に向かう危険な旅に出発して以降11年間、海外宣教を続け、死ぬまで母国に戻ることはありませんでした。ゴアはすでにポルトガルによってキリスト教が伝えられていましたが、教会はひどい状態でした。現地の言葉を学んだザビエルの説教を聞き、多くの人々がキリスト教徒となりました。そのほとんどは貧しい人々や原住民、また低いカーストの人々だった一方、植民地を支配するヨーロッパ人のキリスト教に反するような強欲さ、抑圧的搾取、不実さにザビエルは悩まされたようです。
次なる宣教地として日本を目指したザビエルは、波乱の航海の後1549年8月15日に鹿児島に上陸します。政治的には混乱期でしたが、鎖国が確立する前の日本に到着できたことはザビエルにとって好都合だったといえます。日本文化の洗練された美を理解したザビエルは、日本文化に触れたことで、それまでは何もない大地に建物を建てるつもりで行っていた宣教活動の姿勢を改め、福音のメッセージとあい通じる当地の文化に潜在するものを探ろうと努めるようになったと、イグナチオにあてた手紙に記しています。
27か月日本に滞在し、キリスト教の小さなグループをいくつか作ったザビエルは次に、当時鎖国をしていた中国を目指します。しかし上陸の機会を待つ船の中で病気にかかり、死んでしまいます。わずか46歳でした。
ザビエルはリジューの聖テレジアと並び、外国で宣教を行う宣教者の保護者でもあります(日本の宣教の保護者でもあります)。

○模範のヒント○
福音を説くためにあなたを使われる神に信頼すること、神が望まれる場で人々に仕えること。勉強だけでなく霊的生活も大切にすること、この世において神の国を建てるために、自らが困難な時でも絶えず働くこと。


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